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特集

これからの私に一番やさしい
米沢の着物

きものの町 米沢をもっと知りたい

三万石の日向高鍋藩から救世主登場

実父上野介の指南により、綱憲は行事や公際では見栄を張り、金に糸目をつけません。
うるさそうな藩士には高給を与えて口を封じ、おとなしい藩士の給与は値切るというメチャクチャな「経営」は綱憲の後も続き、五代吉憲、六代宗憲、七代宗房、八代重定と借金は膨大に膨れ上がるばかり。
九代(謙信から数えて十代)として養子に入ったのが上杉家中興の祖といわれる上杉鷹山その人。家老たちは疲れ果て、考える力も失い、藩政返上が叫ばれているところでした。ちなみに米沢の人たちは「忠臣蔵」をあまり観ないと、取材で立ち寄った店の方がおっしゃっていました。
実は、鷹山公も上野介の孫娘のそのまた孫娘を母に持つ、上野介のいわば子孫。ばっちり血がつながっているのではありませんか!上野介は、贅沢な政治指南で米沢藩を困窮のどん底に導いた真犯人みたいなものですからなんとも皮肉なことです。
鷹山は幼名を松三郎といいました。後に直松と改め、十歳で上杉藩に養子に入った時に直丸勝興に。さらに元服後に治憲と改め、晩年がやっと鷹山です(時系列で名を変えると混乱を招くので以下全て鷹山とします)。
ご存じのとおり、藩主の妻子は江戸に置かれた時代。日向高鍋藩三万石(現在の宮崎県)から東北の米沢藩まで、十歳の子どもが長旅かと思いきや、実は江戸屋敷から江戸屋敷へという近所への引っ越しでした。

質素倹約が始まった

しかし、引っ越しは楽でも上杉家へ養子入りしたあとは楽ではありません。藩主ですから、帝王学を徹底的にたたき込まれます。
師は折衷学派の儒者、細井平洲。朱子学、陽明学などを単に読み解くだけではなくて自分のものとして実践を重んじる学派でした。
さて、十七歳の鷹山は最初に着手したのが大倹約です。いわゆる、どこかの会社でも試みる「経費節減運動」です。参勤交代の行列を減らし、藩主でありながら普段は木綿の着物、食事は一汁三菜、上野介から続いた音信贈答の習慣を固く禁じました。
自分の生活費は千五百両から二百両へ、奥女中は50人から9人へと減らし、上野介指南の見栄の生活はここで終わりを告げるのですが、さてここからが大変です。いわば、ブランド高級スーツに身を包んで黒塗りの運転手付きで通勤したい、夜な夜な銀座へ接待に行きたくてたまらないといった風情の重役たちから、強烈な徹底抗戦が始まるのです。
率先垂範で倹約に努め、すべてを包み隠さず全員に現状を告げる鷹山公でしたが、贅沢が大好きな重役たちから批判の嵐。罵詈雑言の抗議文が山ほど届きました。
やがて、役職の上下にかかわらず、身分の低い人の意見にも広く耳を傾けた鷹山の改革は少しずつ実を結び始めますが、農民の生活はもともとが質素でしたので、節約できるものは、もはや何もありませんでした。

「そんぴん」精神

節約だけでは立ちゆかず、鷹山の殖産振興が始まります。自らが率先垂範して水田を耕し、家中の武士たちも新田開発や治水にあたらせます。そういえば、米沢で取材中に食べたお米の美味しかったことと言ったら!
登城しては雑談しているだけの武士たちも、身体を使って汗をかき何かを生み出すことに注力させました。領内の特産品をつぶさに調べ、米沢の気候、風土に合うものは次々に取り入れていきます。青苧、鯉、桑、楮、紅花などは米に代わって年貢になったり、他国へ行けば高価で取引できるものばかりでした。殊に紅花は金よりも高額で取引されたといいます。
生け垣には五加木を植え、いざというときには五加木で飢えをしのぎました。直江兼続公の時代から五加木はあったようですが、鷹山公が奨励したことで格段に増えました。今も、米沢のあちらこちらに五加木の生け垣を見ることができます。刈り取りが終わった田や池では鯉を飼い鍬や鋤をふるうことのできない老人や子どもたちが世話にあたりました。
城の庭や武士たちの自宅の庭には桑を植え、養蚕を始めました。これが米沢が着物の一大産地となる第一歩となりました。
みすみす損をすると分かっていても、正直な生き方をすると分かっていても、正直な生き方をする意味の「そんぴん」という米沢の方言は、人をさげすむ言葉から、褒め言葉へと意味を変えていきました。

  • 右 着物「雪つむぎ」 野々花染工房
    帯「榀糸」八寸帯 野々花染工房
    左 着物「四季」 よねざわ新田
    帯「紅花」 よねざわ新田

武士の妻が機織りを

貧しさ故に当たり前のように行われていた、生まれたばかりの子を自らの手で葬る間引きや、労働力としての価値を失った老人を捨てる「姨捨て」も鷹山は禁じます。「藩は藩主のためではなく、藩民のためにある」という信念を徹底的に貫いたのです。1782(天明2)年から6年間に及んだ天明の大飢饉では、南部藩などでは餓死者が後を絶たなかったという悲しい歴史がありますが、なんと米沢藩では一人も出さなかったのです。
鷹山が行った多くの改革、殖産振興の中で、最も力を注ぎ、最も大きな産業開発となったのが染織です。謙信の頃から置賜特産の青苧は、もともとは上杉領だった越後、小千谷縮の原料として出荷するだけでなく、織物にして付加価値を付けようと考えました。原料はあっても織り手のいなかった米沢に、越後から機織りの職人を呼び寄せ高給を与えて厚遇し、織りの指導に当たらせました。究極の質素倹約を続けながらも、必要なところにはきっちりお金をかけたのです。
江戸城大奥では、煌びやかな衣装で装うことを競い合っていた時代に、鷹山はまず家中の女子に機織りを習わせ熟練してくると、続いて農民たちに教え、機を織らせました。ついには武士の妻たちも糸を染め、機を織るようになり染織の一大産地への礎となったのです。

為せば成る

今から二百年以上前に上杉鷹山の改革、殖産振興によって始まった米沢織は、その精神とともに連綿と今に受け継がれています。
米沢では現在も、着物や帯だけでなく、およそ布と呼ぶ物は服地、インテリアと広く、新しいものを生み出し世界から注目されています。男物の袴に至っては全国の生産量の95%以上を占めています。
麻による縮織りにはじまり、養蚕を盛んにした米沢では、絹織物でも世界に誇る一大産地となりました。米沢の気候、風土に合うものは何でも取り入れ、正直に真面目に取り込むことで、無から有を生み出すことを米沢の人たちは知っています。
為せば成る
為さねば成らぬなにごとも
成らぬは人の為さぬなりけり
米沢の市内には、通りの片隅などに「草木塔」が点在しています。草木にもそれぞれに精霊が宿るという信仰から、草木から得られる恩恵に感謝をし、討伐した草木の魂を供養する心が表れています。この地方ならではの草木塔を見かけるたびに、ものを大切にし、自然に感謝するという米沢の人たちのDNAを感じ、ますます米沢が好きになります。

米沢ならではの美しい着物

さて、キリスト教思想家である内村鑑三の著作『代表的日本人』には、上杉鷹山公のことが書かれています。第35代アメリカ大統領のジョン・F・ケネディが日本の記者団から「日本で一番尊敬する人は誰か?」と問われて、「上杉鷹山」と答えたのみならず、為せば成るの詩を諳んじたといいます。有名な大統領就任演説にも鷹山公が影響を与えました。また、ケネディ大統領の娘、キャロライン・ケネディさんが駐日大使になった時には、お忍びで米沢を訪れ、上杉家御廟所にお参りしています。
鷹山は、生涯、一汁三菜、木綿の着物で過ごし、身体の不自由な妻をこよなく愛しました。いつも穏やかで柔らかな笑みをたたえ、約束は必ず守るというナイスガイ。
女性にも人気がありましたので、武士の奥さんたちも従いやすかったかもしれません。洞察力に優れ、愛にあふれたリーダーは、1822年4月2日(文政5年3月11日)に72年の生涯の幕を下ろします。過労が原因でした。
民百姓と同じ生活を貫いた鷹山の魂が、今も米沢の地に、そしてこの地が生み出す美しくも個性的な着物に息づいています。
米沢にも多くの機屋があり、ライバルでありながら、仲が良く互いを尊重しています。
個性的で魅力的な着物や帯を、誌面をとおしてご覧ください。機屋さんたちのチャレンジ精神と探求心、米沢の歴史に裏付けられた米沢気質を感じていただけるでしょうか。