Ruruto

特集

これからの私に一番やさしい
米沢の着物

商品協力/栗野商事 ウライ 望幸 小川屋
撮影/タカヤコーポレーション
取材写真/松村均 松本きりん
着付け/羽尻千浩 ヘアメイク/添田麻莉
モデル/四位笙子 JKS専属ドリームエンジェルRIN 小栗康太朗
ロケ地/JAPANESE ICE OUCA 汎洛(パンラク) Le Lundi(ル ランディ) 喫茶KANO 紅葉の小径 仙鶴 枡儀 京都さしみ丸

怒濤の戦国時代、越後から関東にかけて
一大勢力を誇った上杉家の始祖、上杉謙信。
米沢移住後、藩の財政危機を瞠目の改革で乗り切り、
米沢の人々の心の奥に今も脈々と受け継がれている
「為せば成る」の魂を残した上杉家中興の祖、上杉鷹山。
日本史上に光彩を放つ二人の生涯をとおして、
1度訪ねると誰もが好きになる、米沢の持つ不思議で温かい魅力と
おしゃれで個性的な米沢の着物の魅力を探ります。

文武両道の上杉謙信

信長から秀吉へ、そして家康へと、天下を巡って多くの武士たちがしっぶう怒濤のごとく駆け抜けた戦国時代。
「戦をするなら謙信のように」と後の世まで伝えたてた天下の戦上手、謙信は、1530(享禄3)年、越後守護代の長尾為景の四男として生まれました。
長子でなかったため禅寺で育ちましたが、為景の死後、長尾一族を統一、後に山内上杉家の養子となり越後から関東一円を納めます。甲斐から信濃へと進出していた武田信玄との「川中島の戦い」はあまりにも有名ですが、実はこの戦いは数年にわたって農閑期に行われていたのです。
士農工商の世が定まる前は、領民たちが鋤や鍬を弓矢や槍に持ち替えて、農閑期に闘っていたのでした。
「敵に塩を送る」ということわざは、海のない武田領で常に塩が不足していたため、謙信が信玄に送ったというお話から来ています。戦上手で勇猛果敢なイメージが強い謙信ですが、実は慈悲深く、文学に造詣が深く、道義にも篤い文武両道の人でした。カッコイイですね。
上杉家の当主を二代にわたって殺害した父親からは下剋上の戦国を生き抜く処世術を、観世音菩薩の信者だった母からは慈悲の心を受け継いでいたのでしょうか。謙信は信長との戦いでも大勝し、後の世に「上杉に逢うては織田も名取川(手取川)、はねる謙信逃ぐるとぶ長(信長)」と狂歌に詠まれたほどでした。

米沢の藩困窮の始まりはあの人のせい⁉

しかし、関東大遠征の直前、四十九歳の謙信は脳溢血で倒れてしまいます。
敵に送るほどあった塩分の摂りすぎだとしたらシャレになりません。
毘沙門天の化身は天下への夢を秘めたまま無念の死を遂げました。
謙信の死後、二代景勝が家督を継いで、越後の平定に注力。米沢藩主としては初代となります。
同時に豊臣大名として勢力を拡大していきます。
その後1598(慶長3)年に越後九十一万石から、会津へと移封を命じられ百二十万石になり、豊臣五大老の一人となりました。なぜ移封?なぜ加増?と謎の多いことですが、その理由は憶測も含めて数多くありますので、ここでは割愛します。
景勝は、天下分け目の関ヶ原の合戦で豊臣方についたことから、家康によって米沢へ移封され領地は四分の一の三十万石となりました。三代綱勝が世子を定めないまま夭折し、養子の綱憲が四代藩主となった時にはさらに十五万石に!米沢藩の困窮が始まります。
景勝は会津からすべての藩士を連れ、米沢へ入っていましたので、会社でいえば売り上げは四分の一で社員数は今までどおりという、倒産間違いなし!のかなり厳しい構造だったところへさらに売り上げ半分!
急遽四代目として養子に迎えられた綱憲は忠臣蔵で有名な吉良上野介の子ですが、これが火の車を巨大にしていくのです。ドラマや映画のとおり、実父の上野介は礼儀指南で財政よりしきたりを最も重んじました。