Ruruto

特集

ちむじゅらさんの染と織
思いをつなぐ沖縄染織をまとう秋
※沖縄の方言「心の清い人」

身近なものを柄にする
琉球絣 大城廣四郎織物工房

南の風の原と書いて南風原はえばるという美しい地名の町にかすりロードという道があります。 日本全国に伝わる絣の原点は久米島といわれますが、 ここ南風原でも大自然に囲まれ、太陽の光を浴びて絣を織っていました。

モダンな建物の大城廣四郎織物工房

着物:琉球絣 大城廣四郎織物工房
帯:城間紅型小千谷ぜんまい紬地(高三織物)なごや帯
城間栄順作

600種類もの魅力的な絣

大城一夫さんと大城トミ子さん。

南風原の、ちょっとしたアトラクションかと思うほど急な「かすりの道」の坂道をヒューッと下って行くと、壁のタイルが絣模様になっているとてもオシャレな建物がありました。それがまさしく目的地の「大城廣四郎織物工房」で、『るると』編集チームが到着すると、最高の笑顔で迎えてくれた大城一夫さんと奥さまのトミ子さん。一夫さんは大城廣四郎さんの2代目としてこの工房を守っている方です。大城廣四郎さんは1988(昭和63)年に、一夫さんは2020(令和2)年に、親子二代にわたって労働大臣より現代の名工「卓越技能者」として表彰されています。 「琉球絣の最大の特徴は、1600年の歴史と、600種類も伝わっている古典的な絣の多彩な魅力です」と一夫さんが教えてくれました。絣は海のシルクロードを渡って久米島に伝わったとされていますが、ここ南風原でも古くから盛んに織られていました。
琉球王朝では貝摺かいずり奉公所という、王府で漆器や紅型などのデザインを管理する役所の絵師がデザインを担当していました。絣は15世紀くらいに南方から伝わってきましたが、琉球絣をはじめとする沖縄の絣の多くは、この貝摺奉公所のデザイナーが生み出したものです。それらは『御絵図』に残っていて、遠く久米島、八重山、宮古島へも織物を発注する際に用いられました。発注どおりに織って納めるのが貢納布です。この御絵図によって沖縄の織物の技術水準は高くなったともいわれています。

戦後復興の第一人者

「絣は大きく分けると四つに分かれるんです。動植物、自然、道具や形、もう一つは何だか分かる?」とちょっとしたクイズを出してくれました。取材班がきょとんと考えていると奥さまが横から「人のカタチですよ」と教えてくれました。600種類のうち、今も300種類くらいは実際に残っていて、大城廣四郎織物工房では80種類くらいは盛んに織られているそうです。
かつて南風原の家庭では機織りをしている家が多く、親が子に織り方を教えていましたが、明治に入ると、女子工業徒弟学校で多くの織子を養殖していました。大正時代に入るとここ南風原にも村立の女子補習学校ができて熱心に織物指導が始まりました。
首里と同様に南風原は、第二次世界大戦の時に住民を巻き込んだ大激戦区となりました。ひめゆり学徒が看護師として従事していた陸軍病院も南風原にありました。南風原は激しい地上戦で機織りの道具や材料ばかりでなく、多くの従事者を失ってしまいます。それでも、戦後いろいろな道具や材料をかき集めて比較的早い段階で機織りが再開されました。船舶用のロープや靴下まで解いて糸にしたと資料には書かれていました。復興への強いエネルギーと意志を感じるエピソードです。その復興に全身全霊で取り組んだ一人が大城廣四郎さんその人です。

時を超えて愛され続ける
琉球絣

着物 琉球絣(染料 琉球藍)
帯 南風原花絽織
着物 帯とも大城廣四郎織物工房