Ruruto

特集

ちむじゅらさんの染と織
思いをつなぐ沖縄染織をまとう秋
※沖縄の方言「心の清い人」

琉球王朝の王族衣裳
琉球びんがた 城間びんがた工房

  • 壮絶な人生の闘いを経て心情を吐露することなく
    ただ、ひょうひょうと、
    ただ、淡々と
    ただ、染められる喜びを全身全霊でぶつけた祖父と、
    後に続いた父の苦労に感謝しながらこの道を行く。

    城間紅型振袖 城間栄順作

仕事は教わるものではなく覚えるもの

九年前に父、栄順さんに代わり、琉球王朝紅型宗家第十六代当主になった城間栄市さん。栄市さんが三歳の時にこの工房ができましたので、それからもう40年以上の歳月が流れていることになります。
「ボクはオヤジ(栄順さん)が45歳の時の子なんです」と栄市さん。
「継いでからのほうが、オヤジに根掘り葉掘りいろいろなことを尋ねるようになりました」と言います。その父、栄順さんは「オヤジ(栄喜さん)に仕事を教わったことはないんです、仕事は教わるものではなくて身体で覚えるものだというのが父の信念だったから」と、穏やかで優しい笑顔で以前言っていたのを思い出しました。300年以上その製法が変わっていないのだと言いながらベランダに干してある不思議なものを「これ、何だかわかる?」といたずらっぽく手に持って見せてくれました。それはルクジュウという沖縄豆腐を干して乾燥させたもので型彫りの時に型紙の下に置いて小刀で細かい部分を彫るのに欠かせない道具のひとつ。紅型は道具もすべて職人さんが手作りするのです。

テント小屋で紅型を

栄市さんの祖父の栄喜さんは1908(明治41)年生まれで小学校を卒業するとすぐに紅型宗家城間家13代の父、栄松さんの仕事を手伝うようになりましたが、明治維新から廃藩置県という激動の中で、琉球王朝がなくなるのと同時に紅型はその用途を失い衰退の一途をたどります。懸命に染め続けた栄松さんでしたが、家業の傾きは待ったなしのお手上げ状態となり、栄喜さんは借金の肩代わりで12歳の時に石垣島の床屋さんへと年季奉公に出されました。他にも林業、漁業、かまぼこの製造など多種多様な仕事に懸命に励み、年季が明けると二十歳で父の元へ帰りました。 1942(昭和17)年、栄喜さんは染料の仕入れで50枚ほどの型紙を持って大阪へ出かけますが、そのまま軍隊への招集。佐世保で終戦を迎え熊本に疎開している長男と次男と共に焦土と化した首里に戻れたのは2年後。妻と三男は砲弾で命を失っていて二度と会うことはかないませんでした。
年季奉公の時に身につけた漁業のノウハウで家を支え、テント小屋で紅型を再開。拾った空の薬莢は筒描きや伏せ糊の先に、レコードは糊置きのヘラに、米軍基地の口紅や瓦屋根をすりつぶしたものは染料にと、あらゆる知恵を出し尽くして染め続けました。

  • 城間紅型小千谷ぜんまい紬地(高三織物)なごや帯 城間栄順作

  • 上 城間紅型真綿紬地(高三織物)なごや帯 城間栄市作
    下 城間紅型縮緬地なごや帯 城間栄順作

染まるようになるまでに8年

「こういう工房があって、道具があって、人がいて、自分はとても幸せです。この環境には感謝しかありません」と栄市さんが言いますが、その言葉は、城間家の歴史を思えばドーンと、途方もない重みを増してきます。 工房を引き継ぐまでは栄市さんのお母さんが中心になって行っていたという「イェーガタ(藍型)」に必要な「藍染」も栄市さんが引き継ぎました。中でも「イェーウブル(藍朧あいおぼろ)」は城間家のお家芸でした。しかし、まともに染まらない。失敗してもいいからやりなさいといわれて失敗が続き、なんと染まるようになるまでに8年もの歳月がかかったそうですが、それを語る栄市さんには苦労を語っているような辛そうな様子は全くなく、淡々としてむしろ楽しそうにも見えました。栄順さんもまた城間家の歴史や自分の苦労を泰然と語っていた姿に重なります。語り始めればキリがないドラマよりもすさまじい話を城間家の代々は聞かなければ語らないし、聞いてもあまり語らない。 紅型を愛し、仕事を続けるというシンプルな、しかし固い決意以外に何もない、潔さを感じます。

目の前にあることをキッチリやる

「20代の頃に、インドネシアのジョグジャカルタに住んでいた時期が2年間ほどあって、でもボクは東京や京都へ行くよりもインドネシアのほうが居心地よくて(笑)、人が沖縄と似ているような気がするんです。どうせ行くならばちょっと立ち寄るとかではなくて、ディープにその他にどっぷりはまってみたかったので縁を頼り移り住んで・・・、言葉はひとつも分からなかったので間に入ってくれた人がバーンと辞書を渡してくれました。言葉は通じてなくてもなぜかわかり合える不思議な日々でしたが、インドネシアの王族が身にまとうジャワ更紗などに紅型との共通点を感じたり、刺激を受けたりしました」と栄市さん。 「『持ち場、持ち場』」と父(栄順)はよく言います。一人でできる仕事ではないのだから、人を大切にしなさいと。技術的なことは教えてくれませんが、こうしたことは教えてくれるんです。先の心配をしないで、今のこと、目の前にあることをキッチリやるのが自分の使命だと思っています」と、静かに、しかし力強く語ってくれました。

  • 1953(昭和28)年頃、城間栄喜さん45歳。

  • 1989(平成元)年 左 城間栄喜さん81歳
    右、栄順さん 55歳。