Ruruto

特集

ちむじゅらさんの染と織
思いをつなぐ沖縄染織をまとう秋
※沖縄の方言「心の清い人」

幻の読谷花織をよみがえらせた人
与那嶺貞

  • 手元の糸の輝きを見つめる目と、
    将来を鋭く見抜く眼を持ち合わせた女性がいました。
    最高齢で重要無形文化財技術保持者(人間国宝)となった
    与那嶺貞さんです。

    首里女子実業学校時代の旧姓知念貞さん。右は母。
    ユンタンザミュージアム所蔵

読谷山花織復興の決意

人間国宝認定の時 貞90歳
ユンタンザミュージアム所蔵

第二次世界大戦で何もかもが燃え、消滅してから15年の歳月が流れていました。読谷村では村おこしの一環として、地域の人々に忘れ去られていた織物「読谷山花織」の復興計画が持ち上がりました。
与那嶺貞さんは、夫と戦争末期に生き別れたまま再開かなわず、女手ひとつで三人の子どもを育て上げ、読谷村の生活改善普及員として働いていた時に、読谷村の池原村長から「読谷山花織の復興に携わってほしい」と声がかかります。貞さんは結婚前に実家で日常着を織っていたことはありましたが、読谷山花織を見たこともなければ、どんなものなのかも想像もつきませんでしたので、何度も断りました。
貞さんは読谷村では数少ない首里女子実業学校(沖縄県立女子工芸学校の前身)卒業という知識や教養を買われての依頼でした。首里女子実業学校は沖縄県内では唯一の女子教育のための学校で、本科卒業後はさらに研究科に進学し、そこで四年間織物の基礎について学んでいました。
確かに、美しいこの布は複雑で、誰にでも解明できるものではなさそうです。口伝で伝わってきた織り方は伝承が完全に途絶えていたので 「う り う て ー る ち ょ う や よ か み る や てぇーんでぇーやー(この布を織った人は神様かもしれない)」と布を見ては人々がつぶやいていたそうです。 見本として渡された古裂には見覚えがありました。実家も似たような古裂があったのです。貞さんは復興事業に身を捧げる覚悟を決めます。その時貞さん55歳。

  • 子を抱く貞さん。 ユンタンザミュージアム

花織らしい良い物を

年を重ねてもなお、亡くなる2年ほど前まで機を織り続けていました。
ユンタンザミュージアム所属。

1964(昭和39)年に、読谷山花織の復興が本格的に始まりました。
「織っている人を見たことがある」とか、「家の納屋の奥に機織の道具がある」という人を訪ね歩くことからその活動はスタートしましたが、実際に織っていた人には巡り会えませんでした。数学の素養も備えていた貞さんは、暗中模索の中、経糸と緯糸を布から読み解き、糸の計算をして花織を織り始めました。
地機で少しづつ紋織ができはじめた頃、南風原ではすでに高機を使い始めていることを聞きつけた貞さんは、読谷山織を高機を使い始めていることを聞きつけた貞さんは、読谷山花織を高機で織り始めることを思いつきます。バスで何度も南風原を訪れました。道具や材料の調達もままならない中、花綜絖の仕掛けなど試行錯誤を繰り返し、奮闘し続けた貞さん「花織愛好会」という名称で開催した講習会が少しずつ形になり始め、従事する人の数も増えていきました。かつては、機織りは読谷村の女性ならばだれもが嫁入り前には覚えていましたが、この時代、四か月間の講習会で、機織りが初めての人も数多くいて、貞さんは熱心に心を傾けて指導をしたといいます。
そして復興事業が始まってから約10年という歳月が流れ、1975(昭和50)年に沖縄県指定重要無形文化財「読谷山花織」技術保持者の認定を受けました。
「花織らしい良い物を作りなさい」、「生きている間は配色とデザインに満足するな」と後に続く織工さんたちに厳しく言い続け、1999(平成11)年には、国の重要無形文化財技術保持者(人間国宝)の認定を受けました。貞さんは90歳。最高齢での認定で、天に召される4年前のことでした。

  • 与那嶺貞作袷衣裳
    沖縄県立博物館所蔵

  • 経緯絣と格子にカジマヤーバナの大小のメリハリがダイナミックで力強いルーブク(胴服)。木綿で1975年頃の作品 沖縄県立博物館所蔵

  • 与那嶺貞作和服
    沖縄県立博物館所蔵

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誇りと気品に
満ちあふれた布

着物:読谷山花織
帯:琉球紅型 やふそ紅型工房 なごや帯