Ruruto

特集

ちむじゅらさんの染と織
思いをつなぐ沖縄染織をまとう秋
※沖縄の方言「心の清い人」

祈りと願いが込められた
読谷山花織

  • シンプルな模様に、
    力強さを感じることのできる読谷山花織。
    難しい技に挑戦し続けることで、新しい柄が生まれ、
    繊細な表現力もプラスされました。
    超えたいのは前回の自分の作品。
    そんな織工さんたちの進化は止まりません。

    終始笑顔で取材に応じてくださった
    読谷山花織事業協同組合の理事長
    又吉弘子さん。
着物:読谷山花織
帯:読谷山花織
技法:手花花織

愛のティサージ

沖縄本島中部の、東シナ海にカギ状に突き出した半島に読谷村はあります。長浜という貿易港がありましたので、15世紀以前から中国や南方の国々と独自の交易があり、貿易のハブ港として大いに賑わいました。琉球王朝が誕生する以前から村には独自の政治、経済、文化が栄えた時代があったのです。『るると』編集チームがこの日訪ねた読谷山花織事業協同組合理事長の又吉弘子さんが「昔の中国大航海時代に読谷山花織のルーツとなる布が伝来したといわれているんですよ」と教えてくれました。読谷村は日本全国で一番人口が多い村でその数四万二千人弱。その中から三人の重要無形文化財技術保持者(人間国宝)を輩出するなど沖縄の豊かな伝統文化が息づいているところです。
読谷村が生んだ三人の人間国宝のひとりが、幻の織といわれていた読谷山花織を復活させた与那嶺貞よなみねさださんです。貞さんなしに読谷山花織を語り尽くすことはできませんが、そちらは後ほど詳しくお伝えするとして、ここではそれ以前のこと、そして現在のことをお話ししましょう。
読谷山花織のルーツは、前述のとおり南方文化の影響で生まれたのではないかといわれていますが、残念ながら史実としては明らかにされていません。遠くアゼルバイジャンの驢馬ろばの馬具からよく似たものが見つかったりしていますのでヨーロッパやアジアの織物など互いに影響を与え合っていたのかもしれません。
そんな中、読谷山花織は港から旅立つ意中の人や家族のために織られたティサージ(手巾=手拭いのようなもの)がその原点ではなかったかという説が有力です。ちなみに愛する人のために織るのがウムイ(想い)ティサージで藍染と決まっていました。旅の無事を祈って織るのがウミナイ(祈りの)ティサージで、さまざまな色合いのものがありました。「意味合いとしては千人針のようなものよ」と又吉理事長が教えてくれました。

読谷山花織の主な三つの技術

  • 何枚もの花綜絖(はなそうこう)には赤青黄色縞と、それぞれ紐がぶら下がっていて、足の指に挟んで引っ張ると綜絖が上がる仕掛けで織り上げていくのが「ヒャイバナ」という技法で、緯糸を浮かせて「花」を作ります。花糸が緯浮しているのは読谷山花織だけだと与那嶺貞さんが誇りにしていたといいます。裏で遊び糸が渡っているヒャイバナが読谷山花織の最大の特徴です。

  • 刺しゅうや刺し子のようにも見える、花綜絖を使用しない「ティバナ」という技法で、ティサージはこの技法で織られています。現代では帯を織ることの多い技法です。

  • 竹串で経糸を持ち上げる「グーシバナ」という技法で細帯、半幅帯などに用いられる技法。読谷山ミンサーとも呼ばれます。綜絖を使わないので幾何学的な文様を規則性なしに自由に織り上げることができる面白みを生かせます。裏に緯糸は渡りません。

読谷山花織三つの基本の模様

  • オージバナ(扇花)
    子孫繁栄祈願

  • カジマヤーバナ(風車花)
    97歳のお祝い、長寿祈願

  • ジンバナ(銭花)
    金運祈願

想いも受け継いで

すべて読谷山花織 手花花織 九寸なごや帯

18世紀にはその美しさから琉球王朝の貢納布となり、王朝と読谷村の人しか着用することはできなくなりました。
もっとも読谷村の人たちが日常的に着用していたというわけではなく、ウドゥイ(踊り)の特別な衣装や長寿の祝いのお練りの時の衣装のウッチャキ(打掛、陣羽織)やルーブク(胴服)、ワタジン(婚礼衣装)などとして用いられていました。
又吉理事長のお母さんの千代さんはカミアチネーサー(頭の上に大きなザルを乗せて行商をする人)で109歳で天国へ旅立ちましたが、97歳のカジマヤーの時には親戚が行列をして風車を配って歩いたそうです。

「んじゃりがな さばち
布(ぬぬ)なする 女性(いなぐ)
花ぬヤシラミん 織(う)ゆるするん」

意「幾重にも絡まった糸を
くしで整えて布にしていく女性は
花のヤシラミ織りも(どんな織物でも) 出来るでしょう」

読谷山花織の織工の方々は皆、読谷山花織事業協同組合の組合員で、基本的にはこれからも読谷山に住み続けること、与那嶺貞さんが復興した時の技術を伝承することが原則です。しかし、訪れる度にここでは新しい作品と出会うことができ新鮮な驚きをくれます。一人ひとりが誰かのアドバイスに素直に耳を傾け、失敗を恐れずに「やってみよう」と行動する能力にも秀でているのです。これもまた連綿と受け継がれている「貞マインド」のように思えてなりません。ここでは一人ひとりの織工さんが、織るだけではなく、デザインから絣括り縦巻きなどまで、すべての工程を一人で担っていますので、想いや個性は織り上げた布にはっきりと出ます。それもまた個々のモチベーションにつながっているのかもしれません。今、活躍している織工さんたちは、貞さんの困難なチャレンジと同様に、今までに無かった新しい技術にも挑戦してみようと、熱心に勉強会を開いたり、他産地を見学に出かけたりしながら新しい技術や色柄に挑んでいます。それによって、ぼかしの技術に花織を組み合わせたものや、より複雑な「花」に挑んだものなど、作品は少しずつ進化を遂げています。何もないところから何かを生み出すエネルギーが絶えないのもまた読谷山花織のDNAかもしれません。
又吉さんが、与那嶺貞さんの言葉を「口ではスラスラ言えるんだけど、書こうと思うとすごく難しい」と照れくさそうにはにかみながら、紙に書いて教えてくれました。

  • 元気いっぱいで明るいベテランの織工の皆さん。 左から宇座スミさん、松元セツ子さん、楠元キクさん。

  • 出番を持つ花糸。どんな花を咲かせてくれるのでしょうか。与那嶺貞さんは「難しいのは染色」と生涯言っていました。

ティサージものがたり

3/1に切られたティサージ。
作者は渡具知の屋号松田小、松田マカ。
ユンタンザミュージアム所蔵

松田マカは大湾近八のムヤーナー(子守)をしていましたが、近八が1906(明治39)年にハワイへ渡航することになり、マカはこのティサージを織って近八に渡しました。
近八は、ハワイで妻が亡くなり、ティサージの1/3を切って妻の棺に入れました。 戦後、近八は読谷村へ里帰りをした際に、マカの姪の中村文に残りのティサージを「これはあなたが持っていたほうが良い」と渡しました。
文は小学校2年生からマカに育てられていましたが、その頃マカはもう花織は織っておらず、地機で平織りをしていました。いつも同じ場所で織っていたので、足を動かしていた床板部分がすり減っていたことを記憶しているそうです。時は流れ、1962(昭和37)年に、文の長女の知子のりこが首里高校染色科へ第一期生として入学しました。
その頃読谷村では曽根美津子らによって花織復興が動き始めており、文と知子は、担任教諭で花織復興に尽力していた森田永吉を曽根に紹介。文は近八から受け取ったティサージを花織復元のために2/3に切って渡しました。このティサージは与那嶺貞も復元のために何年か借用していました。