Ruruto

特集

ちむじゅらさんの染と織
思いをつなぐ沖縄染織をまとう秋
※沖縄の方言「心の清い人」

取材協力/大城廣四郎織物工房 城間びんがた工房 知花花織事業協同組合 やふそ紅型工房 読谷山花織事業協同組合(あいうえお順)
商品協力/ウライ
資料協力/沖縄県立博物館 読谷村史編集室
撮影/タカヤコーポレーション
取材写真/中根禎裕、松村均
着付け/羽尻千浩
ヘアメイク/添田麻莉
モデル/四位笙子 尾本典子
撮影協力/R&Bホテル京都四条河原町 https://randb.jp/kawaramachi/
2emeMA I SON(ドゥージィエム・メゾン) https://www.leafkyoto.net/newstore/221130-kyoto-2ememaison/
カフェギャラリー 燦 https://cafe-gallery-cafeteria.business.site/
ラメールギキ http://la-mergiki.com/

九州の南端から台湾の方向へ 大小無数の島々が点々と弧を描くように連なる沖縄列島。
この亜熱帯の島々には、独自の文化と歴史が息づいています。
燦々と陽射しが降り注ぐそれらの島々には、個性的な染織がたくさんあります。
歴史に翻弄され、何度も途絶えてはよみがえり、 消えかけてもまた命を吹き返す染織のとてつもない生命力。
『るると』編集部は初夏の沖縄本島を訪ね、 陽射しに負けないたくさんの明るい笑顔と出会うことができました。
今号では、その沖縄本島から 二つの異なる花織、紅型、琉球絣をたっぷりご紹介します。
そしてそれらの美しい染織の、とてつもない生命力の奥にある 歴史や物語をお伝えします。

ちむじゅらさんの染と織
思いをつなぐ沖縄染織をまとう秋

沖縄の歴史と染織

今回の特集では、『るると』編集部は5か所の組合、工房を訪れました。沖縄には、一度や二度の特集ではとても伝えきれないほど数多くの染織があります。今回訪れることができなかった工房は、またいつの日か取材、掲載をさせていただくステキな宿題として、大切に残しておくことにしましょう。そもそも、この亜熱帯海洋性気候の島々にはどうしてこんなにも個性的、多種多様の染織があるのでしょうか?
その理由を知るためには、ほんの少しだけ、沖縄の歴史を知らなければならないようです。
珊瑚礁ならではのエメラルドグリーンの海と、白い砂浜に囲まれた、有人だけでも50余の島々には約三万年前から人が暮らし、太古の昔は個々の島々は独立をしてそれぞれの言語を持ち、独特の文化を有していました。
テレビやインターネットの発達によって、沖縄に取材に行っても言語が通じないということは少なくなりましたが、それでも個性的な地名や名字、独特の単語や発音に驚くことも少なくありません。一説によればそれらの言語(琉球語)は日本の古語の影響を受けているともいわれています。私たちが最もよく耳にする「メンソーレ」は、平安時代の古語の「参り召し終われ」が変化したものという説もあって、興味深いことです。
沖縄本島の各地にはグスク(城砦)が築かれ、按司あじと呼ばれる領主が割拠した時代から、北山、中山、南山という三国の時代へ、そして15世紀には南山の按司の尚巴志しょうはしが沖縄本島を統一しました。琉球王朝の誕生です。王朝では、王族の衣装や王朝で働く人々の衣類の他、大陸やインドネシア方面との交易のための染織を統治下の各地で作らせていました。沖縄に自生する植物のほか、染織に用いられる希少な染料は王朝が輸入し、意匠の指示も王朝が出していました。そのため沖縄には多種多様の染織技術が劇的に錬磨されました。
明治時代に突入すると、王朝はなくなり、薩摩藩の統治下、琉球藩、沖縄県へとめまぐるしく時代に翻弄され、一度は消えてしまった染織もあります。その後、心ある人たちの努力や行政のふんばりで復興を遂げた染織もありましたが、第二次世界大戦で唯一の地上戦が繰り広げられ焦土と化した沖縄では十数万人の命が奪われました。
1939(昭和14)年に初めて沖縄を訪れた柳宗悦やなぎむねよしをして「このような土地が当時尚この世に存在することは奇跡」とまで言わしめた「琉球の富」(染織や陶芸などの技術や音楽、舞踏などのことを総称して柳はそう言った)は、すべて潰滅し、沖縄に残ったものは戦争の爪痕だけでした。
残った人々は生きるために、命をつなぐためだけにその日その日を生きていましたが、そんな中、一つ、また一つとよみがえってきた「琉球の富」。奇跡が起きたのです。
今回は詳しくお伝えしませんが、昨年惜しまれて亡くなられた喜如嘉の芭蕉布の平良敏子さんしかり、奇跡を生み出した人たち、そしてバトンを受け取りさらに染織を昇華させている人たちのことを少しだけ、知っていただきたいと『るると』編集部は願っています。

秋色の季節がやってきました。
旅行も、発表会も、観劇も、そして日常も
街に自然に溶け込む沖縄染織で
軽やかな秋を。

伸びやかで自由な発想
知花花織

    >
知花に暮らす人々の心の奥底に根付いている
ウスデーク(祭祀)の教訓や生き方。
ウスデークで歌えば元気が湧いてくるという
知花の女性たち・・・・・。
知花花織はかつて祈りと願いが込められた
ウスデークの晴れ着でした。
伸びやかで自由な発想で織られる柄はかわいらしく、
眺められていると幸福になれるような気がします。

着物:知花花織着尺
帯:知花花織 九寸なごや帯

ンマハラシーとウスデーク

沖縄市の知花というところで織られている知花花織。この愛らしい柄にピッタリの織物の名前は「知花」というかわいらしい地名からきています。なんという符合!
琉球王朝の統治下、薩摩藩の支配下、貢納布としての歴史を持つ織物が多い中で、知花花織は数少ない例外です。沖縄市が合併前の知花村だった昔、とても盛んだった祭事の衣裳として織られていたという知花花織ひとつは「ンマハラシー(琉球競馬)」の騎手の衣裳です。この競技は速さを競う一般的な競馬よりは、オリンピックの馬術競技に近いイメージで、側対歩で走る馬と騎手の美しさを競うものです。騎手の気品と美しさを競うのに知花花織、羽織と袴は欠かせませんでした。
もう一つはンマハラシーの翌日、旧暦8月15日に行われるウスデークという民族伝統芸能です。五穀豊穣や無病息災を祈願する、300年以上続く大切な祭祀です。
そうした祭祀は沖縄の各地にありますが、知花のウスデークは少し特別です。地元の女性たちが正装の衣裳、つまり晴れ着である知花花織を身にまとい、輪になって歌い踊り、その後獅子を先頭に知花の細い道を、太鼓を打ちながら練り歩きます。ウスデークは臼太鼓のことで手に持てるサイズの太鼓。それを打てるのは80歳以上の女性たちです。なんと歌詞が3番まである歌が全12曲!人気歌手のコンサートさながらです。長い間、知花ではこの歌と踊りはすべて口伝で歌い踊り継がれてきました。歌詞には人として生きていくための大切な教訓がたくさん謳われています。
にくさある人や にくさどんするな ちむぬ道しぢや ひるく明り
(嫌いな人を憎まないで、自分の心を広く持つように)
など、昔の知恵を歌に込め、大切なことを次世代へと伝え続けてきたのでしょう。

知花花織の制作工程

  • 意匠設計
  • 糸の精錬
  • 絣括り
  • 染色・色止・糊付け
  • 整経(せいけい)
  • 仮筬通し
  • 縦巻
  • 綜絖通し
  • 本筬通し
  • 製織
  • 洗い張り仕上げ
  • 織物品質検査

    知花花織の最大の特徴ともいえるのが「経浮(たてうき)花織」で、経糸が浮き上がって織りなす立体感のある柄と、他にはない個性的な柄が魅力です。

    知花花織事業協同組合の理事長、神田(かみだ)尚美さんが知花花織について説明してくださいました。一歩足を踏み入れた瞬間から、明るくエネルギッシュな空気が伝わってきました。

  • 素材は絹、麻、綿と多様で琉球藍、猿捕茨(サルトリイバラ)など沖縄に自生する植物染料で染め上げます。

  • 根気の要る仕事も、仲間と一緒だと励みになるのでしょうか? 綜絖通しもすいすい進んでいきます。

  • 経糸を機にかける前の「整経」。数が少ない道具を使うときは美容院の予約を取るように若い織工さんたちはスマホから予約を取ります。苦手な方は若い方が助けたり、手書きにしたり。すべてのルールは効率的でありながら臨機応変でおおらかです。

  • 洗い張りや仕上げまですべて行います。一人でできない仕事は皆でやるのが知花流。明るい笑い声が聞こえてきます。

  • 皆が使う道具なので、きちんと整理整頓。こうした何気ないところにも互いを思いやる気持ちを感じます。

  • 図案とにらめっこをしながら糸を筬(おさ)に通す前の選り分けをしています。ここで間違えると柄が狂ってしまうデリケートな作業。

  • 図案もパソコンで。出来上がりをイメージしやすいので上手に使いこなしています。

命を吹き返した知花花織

歌詞や踊りと同様にその晴れ着である知花花織の製法や技術も口伝で織り継がれてきましたが、戦争によって伝統衣装も、道具も、技術も・・・・、何もかもがこの世からすべて消滅してしまいました。
沈黙の100年が過ぎ、1989(平成元)年に、知花花織はよみがえります。沖縄の多くの染織がそうだったように、愛情と使命感という言葉では言い尽くせないほどの情熱を傾けた心ある人たちの調査、研究の努力によって再び花を咲かせたのです。とある家に家宝として奇跡的に残されていた晴れ着の高度な技術と美しさ。この発見で知花花織は息を吹き返すことができました。現在知花花織の最も大きな特徴になっている縫取花織は1898年頃の、経浮花織は1906年頃の衣装から復元されています。
知花花織の開花と時を同じくしてウスデークが再び活発になり始めました。知花が再び昔の知花らしくなっていきました。
貢納布としての製法や柄に縛りがなかった知花花織。現在では、地域や行政と一体となって仲びやかなデザインと自由な発想で66名の技術者たちが一反、一反、独自のデザインでかわいらしい布を織り上げています。

  • 知花花織九寸なごや帯