特集
商品協力/ウライ
撮影/タカヤコーポレーション、丹生 司、松村 均
取材写真/松村 均
着付け/羽尻千浩
ヘアメイク/添田麻莉
モデル/四位笙子 JKS専属ドリームエンジェルAKARI CHIZURU AYAHA、伊藤 茜 尾本典子
撮影協力/京都市勧業館「みやこめっせ」
あまりにも大らかに流れる時間に対するいらだちからか、
小千谷が生んだ偉大な詩人・西脇順三郎は若い頃、小千谷に対して嫌悪感を抱いていたそうです。
やがて歳を重ねていくにつれ、いつもどんな時も、自分をすっぽりと包んでくれた故郷の大きさに気づき、
それまで抱いていた感情のすべてが、深く豊かな愛情に変わった順三郎。
小千谷を故郷に持つ人ばかりでなく、取材に訪れた『るると』編集部の一行もまた、
小千谷の人情と大自然に触れることができました。
誰も彼も温かく包み込んでしまう、不思議な魅力にあふれた、豪雪地帯が生み育んできた
小千谷の染織の魅力をたっぷりとお伝えします。
トンネルを抜ければ雪国だと、川端康成が描いた世界は、今も冬の間越後へ向かう人に鮮烈な印象をもたらしています。
『るると』編集部が乗った列車もまた、トンネルを抜けるとパッと目の前の車窓の風景がモノクロームの世界へと変わりました。どんな布たちに出会えるのかと、期待に胸がふくらみ、ささやかな興奮を覚えます。そうして豊かな大自然に囲まれた織物の里、小千谷へと辿り着きました。
帰山雲涯によって描かれた『縮布製造之真図』(小千谷市文化財)の抜粋。この巻物には小千谷の四季折々の風景、明治初期の風俗とともに、小千谷縮の詳細な工程が描かれています。
豪雪地帯の小千谷に伝わる、国の重要無形文化財「小千谷縮」。奈良正倉院御物の中に保存されている、天平勝宝年間(約1200年前)に越後から献上されたとされる麻布が小千谷縮の最も古い記録です。
はるか遠い昔に「越後麻布」と呼ばれたこの織物には、上杉房定や謙信がたびたび将軍家へ献上したという記録も残っていて、当時は夏物オンリーでなく、重ね着にしたり、刺し子を施したり、袷に仕立て、年間を通して着用されていました。絹は天子さまのお召し物、綿はまだ日本で普及していなかった時代、麻布は庶民から武士に至るまで、貴重な「衣服」で越後縮とも呼ばれていました。
江戸時代に入ると、武士たちはそれぞれの家の文様を染め上げた小千谷縮地の裃に家紋を背負って江戸城に上がりました。いわば、現代の制服でありスーツというわけで小千谷周辺から膨大な数の小千谷縮が江戸へ出荷されていました。
全長367km、日本一長い川として名高い信濃川が大きく彎曲する、その川岸に広がる豊かな一大穀倉地帯に小千谷はあります。ここでは四季折々の風情をたっぷりと感じさせてくれる、空や星、雪や水が、木々や花が、そして大地が時に切なく、時に優しく、そして時に厳しく人々に語りかけているかのようです。この豊かであまりに厳しい大自然が、小千谷縮を生みました。
商人であり随筆家の鈴木牧之は、越後の雪を主題とし、それに付帯した風俗や習慣を諸国の人々に伝えた著書『北越雪譜』の中で「村里の婦女らが雪中に籠もり居る間の手業なり。およそは来年売るべき縮をことしの十月より糸を績み始めて次の年の二月なかばに晒しおわる。白縮はうち見たる所は織りやすきようなれば、ただ人は文あるものほどには思わざれども、手練れはよく見ゆるものなり。村々の婦女が縮に丹精を尽くすことなかなか小冊には尽くしがたし」と記しています。
豊かに実った米の刈り取りを終え、田んぼが豊穣から荒涼に変わると、小千谷は雪に閉ざされた世界へと一変します。
越後長岡藩家老の河井継之助が学間のために豪雪の山を越え、江戸へと辿り消いた時、「冬でも青い空」と、たいそう驚いたことが、司馬遼太郎の『峠』の中に書かれています。江戸との対比で越後の冬の、色のない空をよく描写しています。
小千谷から色が消えると、男たちは出稼ぎへ出かけます。そして女たちは凍て付く土間で、糸を績み、地機で麻布を織るのです。雪国独特の湿った冷たい土間が、熱と乾燥を嫌う麻の糸には絶好の環境でした。色も音もない、閉ざされた世界で凍えながら、震えながら、黙々と手を動かすのです。
雪解けの頃の、よく晴れた陽の光がまばゆい朝。風物詩ともいえる雪晒しが始まると、小千谷の人々は春の訪れを感じるといいます。まだ一面雪に覆われた世界ですが、空の色が青へと変わり、煌めく越後三山が清々しく輝きます。
雪晒しは、織り上がった小千谷縮を漂白するために行われます。もちろん人為的な漂白とは違い、麻そのものが含んでいる不純物を取り除くことで、美しく丈夫な布にするのです。雪がゆっくりと解けて蒸発するときに、雪面から約2~3cm程の空気の層が、紫外線の熱作用と雪の反射作用で高温になります。その空気が水蒸気となって上昇し、気圧の低下現象を生み、回転気流が生じます。水蒸気は紫外線を吸収すると酸素と水素が分離してオゾンを生成する。このオゾンこそが殺菌作用と漂白作用をもたらしているのです。遠い昔の越後で、なぜこんな化学的なことが分かったのでしょうか?先人の知恵はあまりにも凄いとため息が出るようです。
偶然海に晒された布が白くなることから漂白作用に気づいたとされる八重山上布の海晒しも、越後の雪晒しとまったく同じ化学作用です。干していた反物が雨に濡れてシボが立ったといわれる阿波しじら、泥の中に布を隠したら美しくなったという泥染などと同様に、遠い昔のある日ある時、偶然雪の上に晒された反物が美しくなるのを見つけた、今となっては誰も知らない功労者がいたのかもしれません。
「越後麻布」が「小千谷縮」になったのは、江戸時代、寛文年間(1670年頃)のこと。播磨国明石藩士の堀次郎将俊が浪人となって小千谷の庄屋 西牧彦治衛門宅に身を寄せました。近隣の人々に読み書きを教えて暮らした将俊は、当地の越後麻布を知り、夏の衣料に改良しようと思い立ちます。故郷の明石縮の技法を基に、緯糸に強い撚りをかけて織り上げ、入念に湯揉みをすると麻布にシボが生まれました。その風合いや着心地は、他に類を見ないほど心地よい涼感を与えてくれる布へと進化しました。
もっぱら白だった麻布に縞などの模様を織り出す工夫をしたのも、将俊とその妻 満、そして二人の娘で、彼等は惜しみなくその技術を小千谷の人々に広めました。麻の糸は乾燥を嫌います。凍てつく湿った土間で、績み、織られてきた、夏の衣料として最高の着心地を誇る小千谷縮は、雪国の辛苦の結晶であることを秘めたまま、猛烈な勢いで全国各地へと広まっていき、生産反数は一六八一年には二五一七反、翌年には五〇六二反と急激に増え続けました。当時作られた長唄の名曲、越後獅子に
「~雁の便りに届けてほしや小千谷縮のどこやらが見え透く~」とあり、江戸歌舞伎では「縮屋新助」を主人公にした「八幡祭小望月賑」ができたことからも当時の隆盛が伺えます。
そして小千谷縮は1955(昭和30)年に国の重要無形文化財に、2009(平成21)年にはユネスコの文化遺産となりました。小千谷縮は材料や職人の減少により、年間の生産反数がわずか3反ほどとその技術の継承が危ぶまれています。
その技法を生かした現代の小千谷縮と、絹織物の小千谷紬は1975(昭和50)年に伝統的工芸品に指定されました。
現在、温暖化の影響もあって年々猛暑が厳しく感じられる中、職人さんたちのたゆまぬ努力と技術革新により、国の重要無形文化財ではないまでも、高品質で求めやすい価格の『小千谷縮』の人気は上昇し続けています。涼しいことに加えて、自宅で洗えてアイロン要らずという扱いやすさも人気の一因なのでしょう。そして職人さんたちの工夫によって小千谷縮の技術から次々に新しい布が生み出されてさらに小千谷は今、ますます着物ファンの注目を浴びています。