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<神の鳥あらすじ>
ときは室町時代、足利将軍を倒し、播磨の国を拠点として権勢を誇っていた大名赤松満祐(男女蔵丈)。
天下統一祈願の宴が、出石神社で開かれます。出石で神の使いとされる一羽のコウノトリが捕らえられ籠に入れられています。その肉を食べると長寿が約束されるということで食べられてしまいそうです。
そこに現れた旅の狂言師夫妻。奉納の舞を披露します。二人の舞から始まって、次々と舞う人々。舞踊は続きます。
舞も終わりに近づくと、夫妻が手をパタパタ。ついに二人は捕らえられたコウノトリを放してしまいます。
さてその後は大立ち回りが・・・・・・。
このお芝居は再演する演目を地元でリクエストを募ったときに選ばれた、地元の皆さんに愛されている新作舞踊劇なのです。
明治34年に開館した豊岡市立出石永楽館(以下永楽館)ですが、テレビの普及などによって昭和39年に一度閉館してしまいました。地元の皆さんの声によって、平成20年に永楽館は44年ぶりによみがえりました。その永楽館歌舞伎の柿落とし興行で座頭を務めたのが片岡愛之助丈。システィーナ・ホールとは真逆の昔ながらの小さな芝居小屋は、他では味わえない雰囲気。
現在は11月公演として定着していますが、柿落とし、二回目までは猛暑の八月でした。文化財故にエアコンは控えめ。夏の暑さとわずか三百余席にギュウギュウのお客さまの熱気で衣裳の中が大変なことになっていたのは想像に難くありません。二回目公演では鬘を固めてある油が溶けたとか。
永楽館歌舞伎に力を注ぐ愛之助丈。地元に入ると「おかえりなさい」「よう来んさった」などと出石の皆さんが親しく声を掛けてくださるそうで、愛之助丈も、故郷へ帰ったような気持ちになるとか。
そんな出石の皆さんに楽しんでもらおうと、サービス精神旺盛な愛之助丈は、永楽館では必ず初役に挑戦すると決めています。その永楽館で生まれたのが「神の鳥」という、ここ出石のご当地狂言です。
豊岡市出石町は、コウノトリの郷として知られており、今は町の川沿いや田んぼにごく普通に人々と共生している姿を見ることができます。かつては日本各地に見られたコウノトリが絶滅。最後の生息地だった豊岡市はコウノトリの再生にも力を注ぎ、そこから、出石神社を舞台にした物語が生まれました。永楽館とコウノトリの再生。その両方に地元の人々が力を結集し、愛之助丈もまた心を傾けているのです。
<勧進帳あらすじ>
山伏に扮した源義経一行は頼朝から謀反の疑いをかけられ全国指名手配中。奥州へ逃げようと途中安宅の関へ。弁慶は東大寺再建のための勧進を行っていると言いスラスラと何も書いていない勧進帳を読み上げます。関守の富樫から次々に尋問がありますが、弁慶はさらにスラスラと答えます。ところが、もう少しで通れるというときに、義経がバレそうに。そこで主君である義経をボコボコにする弁慶。緊迫する場面での弁慶、義経、富樫のやりとりは見応え充分。
<吹き寄せとは>
散った葉や花びらが風に舞い、あちらへこちらへとカサコソ運ばれるうちにどうしたことかと一カ所に寄せ集められることを吹き寄せといい、転じて料理や菓子、そして着物の文様などにも用いられます。
歌舞伎の世界では、有名な芝居の名場面をオムニバスで次々と演じていくことを「吹寄」と呼び、コロナ渦の休演開けの歌舞伎座公演は吹寄で開催されました。
<廓文章~吉田屋あらすじ>
伊左衛門は大坂きっての豪商、藤屋の甘やかされて育ったぼんぼん跡取り息子。扇屋の売れっ子花魁夕霧太夫と深い仲となり、店の金を使い込んで勘当されてしまいます。そんな伊左衛門を心配した夕霧が病の床に伏しているという噂を聞きつけ、文無しの伊左衛門が吉田屋へ。吉田屋主人の喜左衛門夫婦が伊左衛門をいたわりますが、夕霧は別の座敷に出ていると知り、だだっ子のようにいじけてこたつの中に。そこへやってきた夕霧。夕霧の絢爛な衣裳と、ここでの二人の口げんかが見所、さてその後二人の運命は?
「仁左衛門×玉三郎」の美しいコンビで多くのファンを魅了してきたこの舞台。実は、愛之助丈の父、故秀太郎丈の1946年の初舞台も吉田屋でした。