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平成最後の冬の京都。比較的穏やかな日が続いた秋でしたが、2018年も押し迫ってきたこの日、遅れてやってきた冬将軍が遅れを取り戻すかのように頑張っていました。
取材チームを温かく迎えてくださった藤井寛先生は、「ひざを崩して」と言いながらとても気さくに取材を受けてくださいました。
「親父が下絵屋をやっていましたんで、中学の頃から下絵の手伝いはしていたんです」と穏やかな調子でお話が始まりました。大学を出てからは誂えを中心に一人でこっこつやっていたそうです。
「昭和34年頃になると水商売もだんだんと景気がよおなって、粋な着物を作ったら流行るやろと白黒で染め分けをしたり……、下絵を描けたのでね。引き染め屋さんもヒマですぐにやってくれたし。それで火がついて忙しくなって3年くらいはやっていたんです」
その後、それだけではいけないと、墨描きの鼠の濃淡など、次々に新しいものを生み出しているうちにだんだん職人も増えていったそうです。弟子が増えてくると、失敗してもリスクの小さい下前から染めを始めるのが普通ですが、藤井先生はいきなり「上前からやってくれ」という指示で、失敗できない責任ある仕事を与えたそうです。そうすると職人たちは自分で考えながら一所懸命にやるようになる。そうして、弟子たちは他の工房の職人たちよりも力が早くついていったといいます。
そうして、少しずついろいろな作品を生み出していき、昭和42年には「富宏染工」という会社組織になりました。
友禅をするようになると色分けを雲取りでやろうということで、最初、付下げで5~6色作ったところそれが大ブレーク。そして外注に出して分業していたさまざまな仕事を徐々に自社でやるようになります。分業が当たり前の京友禅の世界では、かなり斬新で異例なことでした。
「雲を作るんやったらええ雲を作れ~と言い続けて仕事をしてきたら、今のようなことになりました」と笑う藤井先生。皇室の方のきもののことを尋ねると、「呉服屋さんはいろいろな方の作品をお見せになったんやと思いますが、たまたま皇室の方に選んでいただいた」と謙虚に語りながらそれぞれのエピソードを懐かしそうに、愛おしそうに語ってくれました。
「訪問着にしても振袖にしても、淡いピンク地が多いのですが、私のピンクはピンクかどうか分からない色に指定しているんです。ピンクと一言で言うても20~30くらいのピンクを使って、中には胡粉を入れたりして、色がムックリになるように、40歳になっても50歳になっても着られるピンクを染めているんです」と、色や染めの話になると語りが力強くなっていきます。無地の場所は柄を糊で伏せておき、大きな刷毛でシャッシャッと引き染めをするのが普通の染め方ですが、富宏染工ではどんなに広い無地場でも、細い刷毛で細かい絵柄の部分と同様に丁寧に色を挿していきます。逆にどんなに細い線でも筆を使わず同じ刷毛を使います。
「小さい刷毛で細かく塗っているので、濃い色薄い色にかかわらず深~い色が出ます。生地も上等の生地でないと、経糸でも巻き糸が入っているので、巻き糸の外側だけ染まって深みがなくなってしまう。1回の蒸しでは濃い色はあかんけど、何度も蒸したら芯の色まで発色して、深い色になっていくんです。比べても~たら分かるということでやっています」 引き染めをすれば1時間で終わる仕事も、深い色を求めて一つひとつ挿していくと何倍もの時間がかかります。
「花びらを塗るように刷毛ですべてしますので、8色入ろうが、10色入ろうができるのですが、その刷毛などを作る職人さんがどんどん辞めはって、もう2~3人しかおらんようになっているのが心配です」と、道具や若い人たちの成長に胸を痛めていることなども率直にお話しいただきました。
お話を伺ってから作品をもう一度眺めると、なるほど無地の部分も薄い色はあっても浅い色はないことがよく分かります。そして、時代の新しい感覚を取り入れるために、会議をして若い職人さんたちの意見も取り入れているという藤井先生。
柔軟で穏やかな発想の中に、揺るぎない確信を感じる取材でした。そして、後継者のために、草稿から全てをカタチに残すことと、新しい時代に呼応するものを作り出すことに専心する先を見据えた姿勢に頭が下がる思いがしました。
藤井 寛
「藤井寛きもの」プロデュース
富宏染工株式会社 代表取締役
1935年 下絵師 藤井桃陰の長男として生まれる。
1972年 富宏染工株式会社を設立し同時に工房を設立
【代表的な作品】
・皇后陛下御訪問着(瑞雲重ね)制作従事
・紀宮様御振袖(雲取典麓彩重ね)制作従事
・秋篠宮妃殿下御訪問着(山取松藤慶長文様)制作従事
・皇太子妃殿下御振袖(王朝典雅扇)制作従事
・伝統的工芸品産業功労者褒賞
・経済産業省製造産業局長賞
・日蓮宗法音寺京都別院・法輪時本堂の格天井の制作に従事