Ruruto

特集

東京の伝統工芸を訪ねて
江戸の粋を愉しむ夏

竺仙

竺仙の染物を着ずに「通」ということはできない

着るひと/JKS専属モデルSEIRA

一生モノを買って、
お友達とちょっと差が付く
本物の浴衣姿


着物:綿紅梅浴衣「乱菊」竺仙 作
帯:本場筑前博多織小袋帯「清粋」/近江屋

鑑製とは

竺仙は、江戸の後期、1842(天保3)年に創業しました。江戸の粋の代名詞のようにその名をはせた竺仙の反物にはおなじみのロゴマークの「竹紋」と共に竺仙「鑑製」という文字が書かれたラベルが付いています。竺仙によれば「竺仙染と申しますのは、江戸明治から伝わる型紙と職人の鋭敏な勘のみで作られております。反物の口型に「竺仙鑑製」と染め抜かれた〈鑑〉の一字にその覚悟を示しております。〈鑑〉とは、手本になる、かがみ、また目利きなどの厳しい意味があります。 竺仙は今はやりのS・P・A型企業として、自社企画、生産、販売を続けてまいりました。そのなかで常に、〈鑑〉の文字を規範と致しております」とあります。

着る人たちに、作り手の誇りと自信と安心感をくれるとともに、その覚悟のほども伝わってくるところに、粋を感じないわけにはいきません。「江戸の粋を愉しむ夏」という特集をするにあたって、どうしても竺仙の製品なしではこの特集は成り立たないと言っても過言ではないほど、テーマにぴったりの浴衣や着物です。ここからの数ページは、毎年千種類も発表されるという浴衣の中から数枚ではありますが、たっぷりと竺仙の美意識と共に江戸の粋を感じていただければと思います。

竺仙のサイトには、『東京名物志』からの引用の文章が紹介されています。

「竺仙」は、実に所謂(いわゆる)志ぶい物の総本家本元にして、(その)染出せる中形の浴衣地手拭地を始め、(すべ)て染模様色合の風流古雅にして渋みある、斬新奇抜にして意気なる、到底類と真似の出来得べからざる者にて、通人社会の垂涎措(すいえんお)(あた)はざる所なり。 故に(いやしく)も通人を以て任じ、或は任ぜらるゝ(やから)にして「竺仙」の染物を着せざるなく、之を着せざれば、未だ似て通を談ずべからずと云ふ。

『東京名物志』より
明治三十四年 公益社刊 編集・発行 松本順吉
着るひと/藤井かほり

夏の旅行には、
軽くて涼しくて、
お手入れも楽な木綿で


着物:綿紅梅浴衣「乱菊」
帯:本場筑前博多織八寸なごや帯「涼嘉」/近江屋

江戸の浴衣

ご存じのとおり、浴衣は湯帷子(ゆかたびら)の音便です。帷子は単衣の「布」を称していましたが、徐々に単衣物のことを帷子と呼ぶようになり、湯や風呂に入るとき単衣の着物をまとっていたので、湯帷子と呼ばれるようになります。素材は麻で明衣(めいい)とも呼ばれていました。記憶に新しい天皇即位の儀式、大嘗祭(だいじょうさい)の中に、御湯殿(おゆどの)の儀というのがあります。その御潔斎(ごけっさい)のときに陛下は湯帷子をお召しになります。

湯帷子は江戸時代に入ると、徐々に湯上がりに身体を拭う物へとその役割を変えていき、天保年間には素材も徐々に麻から木綿へと変化をします。元禄には、井原西鶴の描いた『好色一代女』に「明衣染の花の色も移りて小町踊りを見しに〜〜」とあるように、浴衣に色が付き文様が描かれ、もはや入浴用ではなく街着になっていることが分かります。

有松鳴海の絞りを別とすれば、細かい柄の浴衣は江戸でしか染められなくなっていくのが江戸末期。まさに竺仙が盛んに染色を始めた時期と重なります。江戸に型付けの職人が集まるようになったのは武士の裃の小紋染が理由ですが、浴衣もまた長い板に布を貼り、型を使って染める点で小紋染と共通していました。ところが、小紋染は片面糊置きに引き染めなのに対して、浴衣のほうは両面糊置きに浸染(しんぜん)という異なった製法だったため、細かい文様になると小紋よりも浴衣のほうが難しく、この頃から腕の良い付師は少しずつ小紋から浴衣に転向していきます。また、明治維新と共に裃の需要はなくなり、職人たちは小紋と浴衣とに分かれ、小紋は主に江戸川濠へ、浴衣は隅田川向こうへと、徐々に別々のところで染められるようになっていきました。

ちなみに、長板ではなく静岡県の浜松市が主産地だった手拭い染の注染が、明治の終わり頃から浴衣にも染められるようになり、大正初期にかけて、今のJR神田駅周辺には紺屋が数多くできました。神田は浜松をしのぐほどの生産量を誇り全盛期には38軒もが軒を並べて長板中形染と注染とで東京が一大産地となります。当時神田には「藍染川」という掘割がありましたが、今は面影もありません。これらの紺屋は「手拭い紺屋」や「折付中形」ともいわれ、今も千代田区の住所には「紺屋」の地名だけが残っています。長板中形とは少し違った歴史を持つ注染。関東大震災や、その後の都心部の発展による水の便の悪さなどもあり神田の駅前にあった紺屋は長板同様に、郊外へ、地方へと移転していきました。こうした一大産地東京にあって、竺仙は渋い物(本物)の総本家本元で、竺仙を着ないとなかなか通とは言えないなぁと言われていたわけです。