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かつて鬼怒川は「絹川」と表記されていた時代がありました。結城紬の生産地の集落の一つ「小森」は、以前は「蚕守」と表記されていた時代があるなど、この地域には養蚕にまつわる地名が多く見られます。崇神天皇の時代、多屋命が三野(美濃)の国から久慈郡へと移り住み、長幡部絁と呼ばれる織物を始めたという伝承が残っています。長幡とは、太い絹糸で織り上げた粗布「絁」を指す言葉。長幡部と「部」が付くと、その布を作る職人集団のことを表します。京都には平安遷都の後、「織部司」という役所が設けられました。この織部の「部」もまた同様の意味を持っています。
絁は「常陸紬」と呼ばれ、1332(延元元)年に発行された『庭訓往来』に諸国の名産品の一つとしてその名が記されています。その後、1601(慶長6)年に三河出身の初代関東郡代である伊奈備前忠次が京都や信州の織物技術を取り入れるなどして品質の改良を行いました。
1638年に刊行された『毛吹草』に結城紬の名を確認することができますが、そもそもは、結城家が鎌倉幕府に献上していたことから結城紬の名が定着したとか。
また江戸時代中期の百科事典『和漢三才図会』には、「最上は結城紬で、信州紡ぎがそれに次ぐ」といった説明がされており、さらに越後屋(のちの三越)、白木屋(のちの東急)、布袋屋(のちの伊勢丹)など当時の江戸の呉服店から連名で、結城へ値下げ嘆願書が出されたことも記録に残っており、結城紬がとても着心地が良く人気があったことを教えてくれます。
ソメイヨシノが美しい若葉を出し、八重桜の残る4月の終わりの頃、『るると』の取材班が訪れたのは、1829(文政12)年創業の小倉商店。出迎えてくれたのは八代目の小倉進吾さんと奥さまの未央さんです。優しい雰囲気と柔らかい物腰は、幾度も洗い張りをしてすっかり糊が落ちて着心地の良くなった結城紬そのもののようでなんだか私たちを温かく包み込んでくれているようでした。
大きく分けても繭から製品になるまで40以上もある工程。そのすべてが手仕事ですので、手間がかかることは言うまでもありませんが、中でもどのへんに? と進吾さんにこだわりを伺うと原料である繭と糸の話に熱が入ります。
「生まれたときから結城紬が身近にありました。うちには古い時代の結城紬があり、資料や道具などを展示している『郷土館』もあります。長年多くの結城紬を見るなかで何かが違うとずっと感じていたのですが、長い歴史の一時期にだけ、絹の光沢と糸の張りが突出した結城紬があることに気づいたんです。
分業ゆえに品質の違いの「原因」が、どの工程によるものなのかを特定しにくかったものの、試作や研究を繰り返す中で、どうやら原材料の繭ではないかと思い至り、繭の研究が深まるにつれ、繭の品質によって地風の異なる反物が出来上がることが分かりました」
それから進吾さんは養蚕農家、農協、蚕種製造所、真綿屋さんなどと共に「風土31研究会」を立ち上げます。
純国産結城紬の一貫生産体制をめざし、養蚕農家の保護や繭の確保、結城紬本来の技術保存をも視野に活動しています。ちなみに「31」という数字は、結城紬の平織が重要無形文化財に認定された昭和31年からのネーミングだそうです。
蚕品種は「ひたち×にしき」、「芙・蓉×つくば・ね」、「松岡姫」、「小石丸」など数多くありますが、進吾さんがたどり着いた繭は「朝・日×東・海」という品種。昭和59年頃多く飼育されていた蚕で日本種、中国種、欧州種が入っている四元交雑種。糸の太さは、3.0デニール前後で手触りが軽やかで糸もよくほぐれるのが特徴です。実際に結城でも「朝・日×東・海」を養蚕していたことも確認されました。どの蚕が良いとか悪いとかではなく工程や技法といかに合っているか?ということなのでしょう。結城紬にはこの繭から手紡ぎされる真綿の糸が最適ということ。
ちなみに、繭5〜6粒で一枚の「真綿」という袋状のものを作ります。その真綿50枚を重ねて1ボッチ。7ボッチで結城紬一反分の計算となります。7ボッチを糸にするには、ベテランでも2〜3ヵ月かかります。長さにして約3万メートル。その気の遠くなるような真綿手紬糸を紡ぐのは、結城紬の40以上ある工程のたったひとつの仕事なのです。
糸にこだわり、着心地の良いおしゃれな結城紬を生み出すことに心を込めている進吾さんの瞳は澄んで美しく、結城紬の未来を見つめているかのようでした。