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工房探訪 西陣織 帯屋捨松

2018/03/01

工房探訪

帯屋捨松の由来

なぜか面白くて親しみを感じる、一度聞いたら忘れられない「帯屋捨松」という社名。業界人は親しみを込めて「捨松」と短縮して呼び捨てます。「捨松」と聞き、豊臣秀吉の最初の子(夭折)「鶴松」の幼名「棄丸」を思い出す方も多いのではないでしょうか。実はこの社名、まんざら無関係とも言えないのです。

現社長の七代目、木村博之さんの曽祖父の名前が「捨松」といい、当時の社名は「木村捨織物所」といいました。曽祖父は木村捨織物所の三代目。子どもの死亡率が高かった時代に、「捨て子はよく育つ」という言い伝えから「捨」という文字を子どもに与える親も少なくなかったといいます。一度捨て置いた場所が松の木の根元だったことは想像に難くありません。さて、博之さんの父の弥次郎さんは徳田義三氏の下に修行に入りました。徳田義三と聞けば、西陣や帯に詳しい人なら一度は聞いたことがあるかもしれません。名匠にして無名を好み、天才図案家といわれた人で、西陣が伝統を守ることを誠実に遵守している昭和の時代に、次々と新しい意匠を生み出し革新をもたらした、西陣中興の祖ともいえる人でした。色(染め)と組織(織り)を、「本能で熟知している」天才だったといわれています。

天才徳田義三が認めた弥次郎さんに、この社名を薦め、自らが看板の文字などをデザインしたといいます。「帯屋捨松」は安政年間に創業し西陣150年の歴史というDNAを持つ一方で、徳田義三の魂と技術を継承する、地道で真面目な仕事をする機屋なのです。

物づくりへの徹底したこだわり

「るると」の取材班が訪れたのは、2017年も押し迫った慌ただしい時期。にもかかわらず七代目社長の木村博之さんが笑頻で迎えてくれました。「最初に工房のほうをご案内します」と、京町家の事務棟から智恵光院通を挟んだ反対側にある建物までぞろぞろと移動です。靴を脱いで入るとすぐに、図案を描いている女性社員さんがいました。

「うちは、全社員が機織りができるんです。織れる人が図案を描くからいい図案を描けるんです」と説明をしながら、完成した図案をいくつか見せてくれました。「図案の描き方はいろいろで、例えばかすれを出すのにガラスに描いてから紙に写すとか、和紙を絞って描いたりもします。ガラスを洗う時はもったいない気がしますけどね」と気さくに笑います。図案段階でそこまでの高いクオリティーが求められるのかと聞かれると「図案に描けないものは織れませんから」と答える口調には自信と誇りが満ちていて、徳田義三氏の魂を垣間見る思いがします。「経糸が細くて細かいときは特に念入りに、キッチリ描きます。そしてこれをどう表現するかは紋紙屋さんと研究します。構想から完成まで2年くらいかかるものも少なくありません」

奥へと案内されると、膨大な資料が整然と並ぶ部屋に図書館のように資料が並んでいました。「うちの心臓部はこの資料室。竹内栖鳳の絵などは印刷の物は多くありますが、うちは原画があります。もう入手できない資料もあって、ここはうちの財産であり心臓部なんです」

フロアーを上がると糸棚がキラキラきらめいていて「うわぁ~、きれい」と思わず声があがります。

「糸はもちろん生糸もありますし紬糸もあります。ツイードなどの特殊な糸もあり、どうしてもないものは、わざわざ1本の帯のためにオリジナルで作ってもらうこともあります。真綿を買って来て、ここで引いて糸を作ることもあります。機械で引くと重くなるので手で引きます」

ボリューム感があって、なおかつ軽い仕上がりにしようと思えば、どうしても手で引いた真綿糸が必要だということになるそうで、軽さを求めるのは、美しい帯を織るだけでなく、締め心地や使い勝手の良さをも追求しているからに他なりません。

微妙に色合いの違う黄色の生糸を3本手に取って見せてくれました。「仕上がってしまえば1色に見えるところでも、実はうちでは最低でも3色以上を縒り合わせて使っているんです。つまりこの3色を合わせて一本の糸にするんです。光の具合や合わせる着物によって出てくる色が違ってくるんです。この3色にしたって、それほど大きくは違わないんですけどね。これが奥行きなんですね。物によっては1本の帯に200色以上の糸を使いますから、3倍してもらったらその手間はお分かりいただけるかと思います。よく『織るのにどれくらいかかりますか?』という質問を受けるのですが、『いや、織るまでにむちゃくちゃ時間がかかるんです』と答えるんです。うちの仕事というのは、手を抜けばすぐに分かる根気のいる仕事なんです」と言いながら、さらに輿味深い話を教えてくれました。

努力と研鑽をやめない覚悟

全体はこんな感じです。手機は緯糸が経糸をしっかり食っているので風が違うといいます。どうしても手間暇がかかります。織り物の設計図を機の横に貼って見ながら織ります。

緯糸が設計図どおりに順番に並んでいます。もし地震でも来て落っこちて、バラバラになってしまったらもう、分からなくなってしまいます。織物の多くは、裏を見ながら織ります(裏が上)。機を下から見上げると右側が経糸だけの部分、左の模様が見えている部分がおり上がっている部分です。

「正倉院御物の復元てありますでしょう?千年もの時を超えてすっかり退色してしまった、今私たちに見えている実際の色を忠実に再現すると、それこそドーンと色が沈んで汚い、暗~い織物が出来るんです。出来た時は美しい鮮やかな織物やったと思うんです。その色を持ちつつ退色した感じを出す。だから染め上がってきた糸に色を重ねていくわけです。経験値で……、渋いけどその奥に元の明るい色がある。うちの仕事はそんな世界なんです」とお話が熱を帯びてきました。

「今、うちが直面している問題は、技術よりも素材です。引箔も、ある程度まとまらないと切ることができないので、うちが欲しいのやよく使うのからなくなっていくんです。安物のピッカピカのはあるんですが、味わい深い色が廃番になったりして苦労してます。糸も質の良いのは中国、ブラジルですがなんせロットがものすごく大きい。うちもかなり材料は備蓄をしていますが、不安はあります。いい時でも悪い時でも、常に新しい物に挑戦せよというのがうちの教えで、もちろんできる範囲はありますが、色にしても、時代によってよく見える色、新鮮に感じるような色を取り入れています。よう売れたと思ってそればかり織っているとダメなんです。常に美術館へ行ったり、街を見て感性を刺激しとかんと。うちは週に2回、社員の勉強会もしてるんです」

歴史と技術に裏付けられていても、たゆまぬ努力と研鑽を休まず続けている人たちだけの、誇りと物づくりの奥深さを学んだ取材となりました。